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『異常』でなければ『普通』でもない人々

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有志の勉強会にて、「『普通』という言葉が嫌い、普通ではない人々に『異常』を押し付ける言葉だから」と話す参加者がいた。そこで自分は反射的に「『普通』と『普通じゃない』を分ける基準とはなにか」として、異常心理学の話題に持ち込んだ。

異常心理学における『異常』の基準例

適応的基準 適応~不適応 ぼっちは異常

所属する社会に適応できているかどうか。他者によって判断される社会的判断(GAFで測るのがこれ)、本人が感じる主観的判断に大別される。

価値的基準 規範~逸脱 犯罪者は異常

判断するための理念体系の範囲内に収まっているかどうか。理念体系は、生活的判断(道徳観・社会通念)、理論的判断(理論モデル・法律)に大別される。

統計的基準 平均~偏り 赤点は異常

集団のなかで平均から外れていないかどうか。質問紙法など主に量的な心理テストによって得られたデータのうち、平均値から著しく離れたデータを示す被験者は『異常』と判断される。

病理的基準 健康~疾病 患者は異常

精神病理学による医学的判断(DSMなど)によって疾病とみなされるかどうか。専門的な判断を要するため、医師がこれを行う。

人はいろんな面で異常である

 『異常』の基準は多元的なものなので、たとえば彼女に 「あなたって普通じゃないよね、っていうか異常」と言われてフラれた場合、彼氏が憂慮すべきは「彼女の言葉通り、自分が世間一般と比べておかしいかどうか(統計的基準)」、「彼女の価値観から大きく逸脱した接し方だったかどうか(価値的基準)」、「職場恋愛だったため、これから同僚の視線がキツくなるかどうか(適応的基準)」、「フラれたことで気を病まないかどうか(病理的基準)」を同時進行で判断しなければならない。じつに大変である。

わざわざ「普通でないこと」を告げる必要があるのかを吟味する

結局、勉強会では「仮に統計的基準で『異常』であっても、それを当人に告げる際には大きなリスクを伴う。つまり、普通でないことを告げる行為自体が話し手の価値的基準に拠るのではないか」という議論の着地を見せた。『告知』というワードは、ガンや精神疾患など病理的基準の文脈で多く登場するけど、そもそも人間は、日常会話でも些細なことから重大なことまで告げ合うよなあと思って聴いていた。ソーシャルワーク実践において、ストレングスモデルやバイステックの個別化の考えも、生半可な理解で用いると「単に人と違う事実」を告げるだけになってしまう。結果的に当事者のスティグマを刺激する恐れがある。

『普通』は言ったもん勝ち

本題に戻る。なんで『普通』に嫌悪感を持つ人がいるのか。それは、『普通』という言葉に透けて見える、マジョリティがマイノリティを排斥しようとする意識に対する不信だろう。統計的基準にかこつけた、価値的基準のレッテル貼りとも言える。また、『普通』を連呼する話者自身が『普通』側にいることを誇示して安心感を得ようとしているのだろう。

散々ここまで書いておいて、数年前に読んだ社会学の本で「『普通』に憧れる若者たち」というフレーズがあったことを思い出した。『普通』に対する不信は、「『異常』でなければ『普通』でもない自分」として、世間に埋没する恐怖感にも由来するんだろうなあ。 研究仮説の種になりそうなテーマが頻発する、実りある勉強会であった。以上(←これが言いたいだけ)

 

以下、参考資料

 

よくわかる臨床心理学 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

よくわかる臨床心理学 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)

 

 

異常の構造 (講談社現代新書)

異常の構造 (講談社現代新書)

 

 

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

 

 

新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫)

新編 普通をだれも教えてくれない (ちくま学芸文庫)

 

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ci.nii.ac.jp